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C.W.ニコルさんが「森の達人」と呼ぶ アファンの森の立役者 松木信義さん(前編)

 「アファンの森」がある長野県黒姫では、戦前に周辺の原生林はすべて伐られ、スギやヒノキの人工林となっていた国有林は、戦後、民間に払い下げられ、農地や里山として開墾されていきました。

 しかし、雪も多く、寒さの厳しいこの土地は農地には向かず、わずかに薪炭林として利用されていたものの、経済成長とともに、石油や電気中心のライフスタイルに変わると、山は放置されていきました。この森も約40年以上にわたり放置され、地元では「幽霊森」と呼ばれていました。

 一見、緑に覆われているように見えながら、生態系としてのバランスを崩してしまった日本の森をなんとかしたい。美しかった本来の日本の森に戻したい。

 ニコルさんは、自分の故郷のウェールズで、石炭の採掘などによって荒れ果てていた森が、緑を回復しようとする人たちの運動によって、みごとによみがえったことを知ります。

ニコルさんとともに、森の手入れをはじめた松木さん(写真=アファンの森財団)

 1986年、黒姫の森を再生することを決意したニコルさんは、地元の林業家、松木信義さんの力を借りて「幽霊森」を生命あふれる豊かな森によみがえらせる活動を始めました。

 地面を覆っていたヤブやササを切り払い、ヤマブドウやアケビ、サルナシなど、クマや鳥たちの好きな実がなるものは残しながら、複雑にからみついて木を枯らしてしまうようなツルをていねいに切り払っていきました。

 一本一本に充分な陽の光が当たるように、枝ぶりを見ながら、樹種を確認して、ていねいに間伐していきます。小鳥たちが好んで巣を作る茂みだけを残して、地面を覆うササなどの下草を刈り払いました。風通しをよくし、地面まで日光が届くようにすれば、またそこには、新たな花や若木が芽生え、育ちます。

 それもすべて、ニコルさんが「森の達人」と仰ぐ、松木さんの教えでした。

 それから30年以上が経ち、今では、珍しい花や貴重な植物、そしてフクロウやクマなど、たくさんの生き物たちがこの森に帰ってきました。ニコルさんは、勇気をもらった故郷の森にちなんで、黒姫のこの森を「アファンの森」と名付けました。「アファン」とはウェールズ語で「風の通り道」という意味があります。

アファンの森の入口。今では風や陽光が差し込む美しい森に(写真=アファンの森財団)

 このように、アファンの森づくりは、松木さんがいなければ、はじまらなかったというくらい、ニコルさんが絶大な信頼を寄せている林業家が松木信義さんなのです。

*「森の達人」松木信義さん

 松木さんは昭和11年、黒姫に生まれ、幼いころからこの地で、何十年も山とともに暮らし、林業家として、建築材や家具材に適した樹木を、実生のうちから見極める確かな目を持つのはもちろんのこと、山で遊ぶのが大好きで、草花や森に棲む動植物に対する愛情と造詣が深い「山の達人」です。

 何日も山に入り、植物や動物たちの行動や成長を実際の現場で、自分の足と目で見て学んできた知識と経験は、半端な学者などとは比べようもないリアリティと説得力にあふれています。「林業家」というよりも、「山師」と呼んだ方がなんだかしっくりくるのかもしれません。山のこと、森のこと、生き物のこと、松木さんはなんでも知っています。

「森をつくるっていうのは、簡単じゃない。とんでもなく長い時間がかかる。木にも大きいのやら、小さいのやら、いろいろあって、いろいろなきゃ、いけないんだ」

 近年、自然環境への意識が高まるとともに、「持続可能」や「生物多様性」という言葉が日常的に聞かれるようになったが、松木さんは自分の目や耳や肌で、それが大切だということをあたりまえのように感じてきた。

 子どものころから、知らないことや不思議に思うことへの好奇心が人一倍、強かったという。ゆえに現場主義で昔気質。ときおり、歯に衣着せぬ”松木節”で、たじたじになる学者もいるとか、いないとか…。

 今年で83歳になった松木さんは、そんな膨大な山の知識をいかにして、身につけることができたのだろうか。生まれも育ちも黒姫。現在も黒姫の森と暮らしている。山を森を知り尽くした森の達人に、アファンの森のこと、黒姫の山のこと、かつての暮らしぶりなどについて、たっぷりとお話しをうかがいました。

*アファンの森のはじまり

 アファンの森づくりがはじまったのは、いまから33年前。ウェールズ出身のニコルさんがはるばる長野県黒姫へやってきて、まず地元の山を知りたいという思いから猟友会に入った。そこで松木信義さんと出会う。

—ニコルさんにはじめて会ったときは、どんな印象でしたか?

(松木) やっぱり外国人だったからな、最初はちょっとかまえたな……。もう30年くらい前になるか。

 松木さんはニコルさんに出会うまでは、長野県から一歩も出たことがないというくらいの生粋の長野人。ふたりは4歳違いで年齢も近かったこともあってか不思議と馬が合った。その後、二人三脚で森づくりをはじめていくことになる。

ふたりで森の未来の姿を想像する(写真=アファンの森財団)

—どんなきっかけで森づくりがはじまったんですか。

(松木) そのころニック(ニコルさんのこと)が、黒姫に15、6反ほどの森を買った。そこを2、3年ほどかけてきれいにして欲しいと頼まれて、引き受けることにしたんだ。森は、もう、そりゃあ、おそろしく、荒れていたよ。木は切り捨て御免で、そのまんまだったし、ヤブも深くて、めちゃくちゃだった。

 松木さんの「もう〜そりゃあ〜」は、あまりにも感情がたっぷり込められていて、ほんとうに森はひどい状態だったのだろう。

 森は、開墾のために中途半端に人の手が入り、大木は伐採され、利用されることなく放置されたままだったという。いわゆる手つかずの天然林とは違って、伐採や開墾、植林などで一度人間の手が入った森は、手入れをしなければ荒れていく一方。アファンと呼ばれる前のその森は、密集した木々で日光がさえぎられ、生き物もいなかった。まったく生気が感じられない「幽霊の森」だったのだ。

 光と風が通る本来の森の姿へ。それにはまずここの除伐が必要だと、ニコルさんは森に精通していた松木さんに白羽の矢を立てた。

—それで森づくりがはじまったんですね。

(松木) 当時おれは住宅の基礎をつくる仕事をしていた。基礎は住宅工事の最初の行程で、雨が降ると、その日は休みになる。晴れたら工事の現場へ行って、雨だったら森へ。これはちょうどいいやと思ってね。それで引き受けたんだけれど…その年はなんだかよく晴れたんだ。

 松木さんはばつが悪そうに苦笑いする。

—本業が忙しくなってしまって、あまり森へ行けなくなったんですね(笑)?

(松木) 3年もあるし、まだ十分に時間はあると、見当をつけていた。だけど、しばらく仕事で留守にしていたニックが帰ってきて、「全然やってない! もっとやってもらわないと!」といわれてね。3年もあるんだし、全然やってないなんて、そんなことないけどなぁ〜と。それで、本腰を入れて数日森の作業をしたら、今度は「すごくやったな〜」と喜んで褒めちぎられた。

 松木さんの山での仕事ぶりに「この人と一緒に森をつくれば間違いない」とニコルさんも確信を得たに違いない。そしてふたりの地道な森づくりがはじまった。

(松木) おれにしてみれば、たいしたことしてはなかったんだ。でもニックはすごく喜んでいて、もっとこうして欲しい、ああして欲しいと、それからいろいろ話すようになったな。

 昔を思い出しながら話す松木さんは、子どものように目を輝かせ、ユーモアたっぷりでとても楽しそうだ。テンポのよい、べらんめえ口調で、まるで落語を聞いているかのようだ。

 *双葉が出ればどんな木になるかわかる

—どのように森づくりをはじめていったんですか?

(松木) 森はめちゃくちゃに伐倒していて、木が倒れていてた。手をつけるのは、そりゃあ大変だった。まずは下刈りして、枯れそうな木や育たない木は切って、間伐して森の見通しをよくしていった。間伐して空いたところにはいろいろな木を植えていった。植えたら、自然に葉が出るのを待つ。

歳も近いせいで、不思議と馬が合ったふたり(写真=アファンの森財団)

(松木) あの頃は、おれもニックもまだ若くて力もあった。ニックなんか、こ〜んな(両手を広げて)大木を斧で切っていた。斧でだよ。まあ、まだニックの腹も出てなかったしなぁ(笑)。

 ニコルさんは間伐で木を切るときにはチェーンソーを用いず、伝統的な方法にこだわった。木に敬意を払い、「こういう理由で伐りますよ」と、心でとなえて自分と同じ歳くらいに育った木に斧を当てていた。アファンの森ではとくにそうしていたという。ふたりは、枯れそうな木や育たない木は切り、間伐して森の見通しをよくしていった。

—まだおふたりとも50代のころですもんね。(当時の写真を見て)髪もまだ黒い…。とはいえ、たいへんな作業だったでしょうね。

(松木) おれには深い考えなんてねぇんだ。好きなように手入れしていっただけ。間伐して空いたところに木を植えた。双葉が出れば、どんな木になるかわかる。木はみんな違うんだ。全部違うんだから、それを見てね、わかるようにならないと山の仕事なんかしちゃだめだ! 芽が出ればわかる。ブナやトチ、植えたときからどんな枝振りになるかと、未来の森を想像しているんだ。

森で遊ぶことが楽しいという二人(写真=アファンの森財団)

 「出た葉っぱから枝振りがわかる。木はみんな違う」 何気ない松木さんの言葉がとても印象深い。こんな言葉が出るまでに、どんな経験を積んだのだろう。

—葉っぱから枝振りがイメージできるんですね。それは長年山に入っていないとわからない…、いや、知りたいという強い思いがないと身に付かないですね。松木さんはどんな子どもだったんですか?

(松木) 昔は働き手が少なかったから、小学校に入ると山の仕事を手伝っていた。仕事っていっても、たいしたことはできねえから、親父が伐った木を運んだりして手伝っていた。それがすごく楽しかったんだな。

—山が好きだったんですね。学校ではどうでしたか?

 学校では先生に見捨てられて…。バカだったんだ、おれは。先生も最初はなんとかおれに勉強を覚えさせようとしてくれていたんだ。でもあるとき、先生にいったんだ。

—いったい、なにをいったんですか?

 人間も山にいる動物も同じ生き物。山の動物は勉強なんてしないけれど、ちゃんと生きてる。人間も動物なんだから同じで、好きなことをしていれば生きていけるんじゃないかって。それがおれの理屈だった。そしたら、「じゃあお前はそうしていけ!」と。見捨てられたというわけ。

—小学生のときに、そんなことを! 山での経験があったからなんでしょうね。

(松木) でも親父にいわれたんだ、バカでもなんでもいいけれど、字だけは書けるようにしておけ!って。自分の名前と住所くらいは書けないと、よそへいって迷子になったら家に帰ってこられないよ、と。そうか! それはたいへんだ! とすぐに覚えたよ。

 探究心旺盛だった松木少年。先生とのやりとりを聞くと、どうやら松木節は子どものころにはすでに飛び出していたようだ。

 後編ではさらなる少年時代、山の話しを掘り下げていく。そして、楽しくて仕方がなかった山は、「いまは楽しいことなんかない。なくなっちまった」という。それはなぜだろうか。松木さんの目を通じて、この数十年の森の変化も同時に探っていきたい。

後編につづく

(インタビュー:須藤ナオミ、写真=太田孝則)

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