Report
「森の達人」と呼ばれる、黒姫の林業家 松木信義さん(後編)
今から30年以上前、誰も近寄らない「幽霊の森」だったというアファンの森。光があふれ、爽やかな風が吹き、動植物がいきいきと暮らす現在の姿からは、まったく想像がつきません。
長い年月をかけて、森にふたたび息吹をもたらしたのは、ニコルさんと「森の達人」松木信義さんでした。
前編では、ニコルさんとの出会いをはじめ、アファンの森の黎明期をたどりましたが、後編では、森づくりの立役者でもある松木さんが、いかにして森の達人と呼ばれるようになったのか、子どものころからの生い立ちから、山との関わりあいや、自然へのまなざしなどを、じっくりと聞いてみたいと思います。
ー松木さんは山の仕事はどこで覚えたのですか?
(松木) 子どものころから、親父といっしょに山に入っていた。親父は山仕事専門で、夏は農業。おれは男4人、女1人の5人兄姉の末っ子なんだ。
ー末っ子なんですね!
(松木) 兄姉のなかでも山仕事に向いていたのはおれくらいだったのかもしれないな。いちばん上の長男は、体が弱かったので、山仕事は無理だろうって、鉄道員になった。二番目の次男は、黒姫を離れて、東京の荒川消防署に入った。三番目は姉。四番目の三男は体力がないからって郵便配達員になった。じつは先週、いちばん上の兄が他界して、ちょうど葬式があったばかりだ。でも、ほかは、みんな80、90を越えて……まあ、ちょっとピントが狂っちゃってるけど(笑)元気だ。
厚生労働省が発表している都道府県別の平均寿命ランクでも、長野県男性はつねにトップクラス。松木家はまさに長寿の家系のようだ。
ーお兄様が亡くなられたばかりだったんですね……。それにしても、さすが、長寿の長野県。では、兄姉のなかで松木さんだけが、山仕事に専念していたんですね。
(松木) そうだなぁ。なにより山の仕事が楽しかった。なんでもわからないことがあると、よく聞いてまわる子どもだった。「これはなんだろう?」と思ったら、親父や周囲の大人たちに聞いてまわった。「やかましい!」って言われるぐらいに。
(松木) たとえば、ナナカマドってあるでしょ。
ー山でよく見かける、赤い実がなる木ですよね。
ナナカマドは、北海道から九州の山地や亜高山帯にある落葉高木で、山に精通している人には馴染みのある樹木だ。東北では街路樹にも植えられることもある。
(松木) あれはうちのほうじゃ、とんでもねぇ、呼び名がある。
ーえっ、とんでもねぇ呼び方ですか!? それで、どんな?
(松木) 「クマのケツフサギ」っていうんだ。
ークマのケツフサギ(笑)。クマのおしりに栓をするっていう意味ですか?
(松木) そうだ。クマが冬眠する前に、この実を喰べると、どういうわけか、糞詰まりになる。それで春まで、腹に食べものをため込んでおくんだ。そして、冬眠が終わると、まず、そのケツの栓を出す。それは、「ほぞ」と呼んでいて、昔はいい特効薬になったらしい。クマの胆嚢みたいなもんだな。
冬眠から覚めたクマは、比較的柔らかな植物類から食べはじめるという。まさに断食明けの状態。冬の間ため込んでいた食べものが腸内で発酵し、肛門の栓がポーン! シャンパンシャワーよろしく、糞を出すというわけだ。
(松木) ひとつの木でも、いろいろな地方名がある。図鑑なんてなかったから、自分で見聞きするしかなかったんだ。すぐ、となりの村では、ぜんぜん呼び名が違ったりもして、ナナカマドは、“ヨメゴロシ”とも呼ばれていたな。
ーよ、嫁殺し!? ちょっと物騒な呼び名ですね。
(松木) ナナカマドも、漢字では七つの竈(かまど)って書く。七竈。ナナカマドは、燃えやすい木材だったから、薪にしたら何度もくべないとならない。何度も竈を行ったり来たりと、嫁は大変だったというわけだ。だからヨメゴロシ。ヒョウタンボクもヨメゴロシって、呼んでいたな。こんな話は、いろんなのがある。こんな話だったら10日やったって、終わらないよ(笑)
ヒョウタンボク(瓢箪木)は北海道から本州各地の見られる低木。春に花が咲き、秋に赤い実をつけるが、それがヒョウタンのように見える。ナナカマドとは違って実は有毒。ヨメゴロシの呼び名が、意味深だ。
ーそうやって疑問に思うことを聞いていったんですね。山のイロハは、お父様や当時、周りにいた山師のみなさんに教わったのですか?
(松木) 聞くたびに「そんなの聞いて、なんになる」って言われたけど、みんなよく教えてくれた。タケダ・セイサクにホンマ・チョウジ、サカモト…、ムラコシ…、(指折り数えながら名前が、スラスラと出てくる)。山師が多かったな。みんな山と畑仕事をする百姓だ。どこも畑を持って、家族が食べる分くらいは作っていて、農閑期は山仕事に専念していた。
ーこの黒姫の環境に寄り添った暮らしぶりだったんですね。
(松木) みんな炭焼きをしたり、薪をつくったりしていたな。まわりから教わったこともあったけど、「これはどうだ?」、「なんでだ?」って、自分でいろいろ見たり、試したり、実験して、自分であみだしていったことが多いな。
ー松木さんは、ほんとうに現場主義なんですね! 発明家みたいです。
(松木) たとえばハチも、山には何十種類もいる。種類によって、ぜんぜん習性が違っていて、それを覚えるのがおもしろい。巣の近くに1匹だけ、じ〜っとしているアシナガバチがいて、1時間経っても2時間経ってもなぜだかそこにいる。アリなんかも、こう、這っていくでしょ。動く限りは、なにか目的があるんだろうと、半日そのアリを追ってみた。そしたらエサを獲って巣穴に帰っていくんだけど、同じところは通らない。アリの行列って、よく聞くけど、規則性があるようでなかったりして。いまだにわからないことは多い。それがおもしろい。
ーアリを半日も観察していたんですか! 山だとクマにも遭遇したことはありますか?
(松木) アファンの森では2回くらい遭遇したかな。クマに遭ったら、あれしろ、これしろ、死んだふりしろなんて、いろいろあるけど、おれの場合は、ガガガガガ〜〜っと、とにかく逃げる! 追っかけられたこともあるけどね。
子グマと鉢合わせした時は、その後ろに母グマがいた。その時も、いちもくさんに逃げたんだけど、追いかけてこなかった。「なんでだろう?」と遠目に見ていたら、そばにクワの木があって、子グマがクワの実を食べていた。そうか、母グマは木を揺すって実を落として喰わせていたんだなと。
ークマの親子はお食事中だったんですね(笑)。
(松木) アファンでは、クマはしょっちゅう見るけど、テンナンショウの根っこをよく食べにくる。おれも試しに喰ってみたけど、ぜんぜんうまくなかった(笑)。
テンナンショウは全国に広く分布する多年草で、根っこにはイモのような球茎を持つ。葉がヘビのような形をしていることからマムシグサとも呼ばれる。秋にトウモロコシ型の赤い実がなるが、有毒。松木さんは、その長年の経験から口にしてみたようだが、食用ではない。一見うまそうにも見えるからか、たびたび中毒事故が発生しているので注意が必要だ。
ーテンナンショウを食べてみたんですか?
(松木) すべてのものは喰ってみる。自分で確認するんだ。人の話は当てにならねぇ。
ーそうやって学んできたんですね。それだけ山に入っていると、痛い思いや、恐い思いなども経験されているかと思いますが?
(松木) 恐いっていうのはないけど、痛え思いはしたな。マムシには3回もやられた。わざわざ、自分からかじられたようなもんだったけど。
ーえっ、3回も。毒がありますよね、大丈夫だったんですか?
(松木) 1回目は、仲間と山で仕事をしている時。マムシを捕まえて、頭の部分をわっかヒモで括ろうと思ったらヒョイッと横を向いて、指をガブリ。おれは咬まれた指をたたき切っちまおうと思ったんだけど、周りが止めたんだ。
ーえーっ! 指を、ですか? それですぐ、病院に行ったんですか?
(松木) 行く前に、傷口を切って毒を絞り出した。最初は真っ黒な血が出てきて、毒だから黒かったんだな、きっと。そのうち普通の赤い血の色に変わって、最後には白くなってリンパ液が出た。そうして止血をして、おれを咬んだマムシも持って病院へ行った。
ーそれで血清を投与されたんですか?
(松木) 病院には血清は常備していなくて、必要な時に東京の病院からヘリで運ばれてくることになっていた。医者は、血清は必要ないという診断で、様子を見ようと。もし、黒い斑点なんかが出てきたら、すぐ診せに来いと言った。でもそのあと、なんともなかったから、これは治ったなと。
ー応急処置が的確だったんですね。指を落とさなくて良かったです(笑)。で、2回目は?
(松木) 2回目は、どこをかじられたかな? 記憶が曖昧だぁ(笑)。3回目は、沢に水を飲みに行ったとき。きれいな沢水で、草むらに両手をついて頭を突き出して、口から直接、飲もうとしたら、手がチクッとした。あ! やられたなと。それで1回目と同じく処置をして医者に行った。そしたら、その医者は血清をすぐに用意したんだ。おれは、血清は簡単に打ってはいけないと言ったんだ。でも、能書きには、そう処置せよと書いてあると、かたくなに医者は言う。
マムシ抗毒素血清の投与は、議論の分かれるところだが、副作用が強く出ることがあり、症状によって投与するか否かを決める。マムシに咬まれたからといって必ずしも投与が必要というわけではないという。過去に2回も咬まれた経験もあり、松木さんは血清をすぐ投与しようとした医者に意見したのだった。
ーそのお医者さんの「ここに対処法が書いてある」という説明も、松木さんがいちばん納得できないところですよね。でも結局、血清を投与されてしまった?
(松木) そう、打つなって言ったのに。少しあとで副作用が出てきたんだ。だんだん動けなくなって、ろれつも回らなくなって病院に担ぎ込まれて一週間の入院だ。マムシにかじられても、どうすればいいか、わかっているから自分でも対処できる。運良く3回目も手だったしな。これが首だとか腹とかだったらダメだけど。
ーマムシのベテランですね(笑)。できれば1回も咬まれたくないですけど…。こうしてお話を聞いていると本当に松木さんは山で生きてきたんですね。
(松木) まぁ、山の仕事が好きだったし、山仕事の景気が、いいときだった。だけど、25歳くらいのときに、景気が悪くなってきて就職することになった。地元の会社に勤めはじめたんだけど、給料が安くて話にならなかったなぁ。会社では深夜勤務までしても日当450円。山仕事だったら1日働けば1,000円にはなった。依頼で、デカい木を切れば3,000円だった。
松木さんが20代半ばだった1960年代初頭。当時のサラリーマンの平均月収は、約20,000円で日当に換算すると600円くらいになる。高度経済成長のまっただ中で、世の中が石油などの化石燃料に急速に頼りはじめたころでもある。
戦中の木材不足から国策として進められた植林事業は、森を伐採し、成長が早い(早いといっても40年)スギやヒノキに植え替えるというものだった。その結果、日本の森林のじつに4割が、これらの針葉樹が占めることに。しかし、化石燃料や安価な外国産木材に押され、その植えられた木の大半は活用されていない。ちなみに、現在、多くの国民が悩まされている花粉症も、この国策のツケと言ってもいいだろう。
(松木) 家のすぐ裏に、おれも森を持っているけれど、当時の国の政策では、スギなんかを植えたら金がもらえたんだな。だから、みんな植え替えた。でも、今じゃこの有様だ。木はすぐには育たねぇ。環境がどうのこうのって、言うけれど、マヌケな話だ。
松木さんは、ここ黒姫で、こうした山や森の移り変わりを、山とともに暮らしながら見つめてきた。
(松木) 確か30歳くらいだったか、昔、世話になった先生が木を植えるって言うんで、手伝いに行ったことがある。「自分は人様の植えた木を切って家を建てた。だから今度は誰かが使うために木を植えるんだ」という。ああ、なるほどな〜と思った。自分で植えて、自分で切るって思うからいけない。植えたら、頭の中で、大きく育つことを想像すればいいんだって。
ーまさに遅効性ですね。松木さんが山で楽しい! って思うのは、どんな時ですか?
(松木) いまは楽しいことなんかないな。なくなっちまった。どの山に行ったって、いまの山におれの楽しみはない。それは人間のせいだと思う。ただそうなったんじゃない。意味あってそうなったんだ。
ーでは、楽しかった時代、昔はどうでしたか? 狩猟もされていましたよね?
(松木) 昔は昆虫でも、小動物でもいろいろいた。そいつらを狙って、タカやワシがきていた。20歳で鉄砲の免許を取って、初めてとったのはヤマドリ。いまじゃ一匹もいなくなっちまったけど、当時は何十匹もとれた。ウサギもうまくて、頭からモツまで全部喰ったな。キノコもたくさん出てた。ホンシメジにシャカシメジ……、シモフリシメジなんかはこのあたりじゃ最高のキノコだった。でも、売ったりしたことは一度もない。売るためにとったらダメだ。
ー山は生活の場であり、食べるための場所なんですね。
(松木) マイタケも何十キロもとれたんだ。いまは、ぜんぜん生えていない。でも、アファンにはホンシメジもシャカシメジも出てくるだろ? ちゃんと森の手入れをしているからな。
ーそれは30年の手入れの賜物ですね。
(松木) いまはどんぐりを拾って、あちこちに埋めている。もう芽が出てきているのもあって、いまあるこの木がそのうちなくなったら、代わりに大きくなればいいなって。そう想像しながらやっている。
山での話しになると、とたんに松木さんは饒舌になり、目が輝き出す。ヤマドリ、ウサギ、キノコといった山の恵みがたっぷりとあったころが、楽しくてしかたなかったようだ。
松木さんは、森のいまを憂いながらも、拾ったドングリを、ポケットに入れ、あちらこちらに埋め、何十年も何百年も先の未来を見つめている。ドングリのひと粒ひと粒は、松木さんにとっての希望なのだ。希望から芽が生まれ、やがて大きな木となり、森になり、アファンの森のように、キラキラとした生命あふれる場所になるにちがいない。
人間は自然を消費し、破壊してしまう存在だが、傷ついて、荒れてしまった自然を修復することができるのもまた、人間だけなのだ。松木さんの山との付き合い方、山びととしての生き方を聞くうち、アファンの森でのニコルさんとの作業は、山が楽しかった時と場所の再生でもあり、希望に満ちた、懐かしき未来を夢見ることができた、楽しい仕事でもあったにちがいない。
(インタビュー:須藤ナオミ、写真=太田孝則)